カトウのブログ

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ねじまき鳥クロニクルを読みました

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル
読み終わって、面白かったのは確かだけど、これはどんな話だったのか正直考えてしまいました。


わたしたちの日常には毎日いくつものニュースが飛び込んできて、たとえそれが酷い事件であっても日が経てばそのほとんどを忘れ去る。多分そんな感じで日々過ごしてる。でも、その中のひとつを偶然突き詰めてみることになったら。思ったより恐ろしいものにぶち当たるかもしれない。

たとえば誰かが誰かを殺す事って、多分そこには人には理解できない深い闇があるかもしれないし、それは、もしかしたら、何か突拍子もないものと繋がってたなんてこともあったりして。


ねじまき鳥は世の中の何らかのネジを締め直している鳥のようです。それがいなくなったら、箍(たが)が外れたように世の中が悪い方に引きずり込まれてくというイメージなのかもしれません。


第二部を読んでいるときに、ふと「これはデビット・リンチだな」と思い立ち、ネットで検索してみたのですが、確かに、「ねじまき鳥クロニクルデビッド・リンチに影響を受けたと聞いていますが、どうなんでしょうか?」と質問サイトに書き込んでいる人がいました。ただ、それへの回答は「そんなことはありません」とそっけないものでした。

わたしの勝手なデビッド・リンチ映画のイメージは、死と生の間に何かがあると想定して、その何かを丹念に描いているんじゃないかと思っています。リンチ映画での生と死の間は怪しげな赤い部屋で、そこには不気味なおじさんがいて、時には踊っていたり、時には機械のような声で話したり、電話でどこかと連絡してたり(電話というのがかわいい)。そして、その部屋には、ある意味の度を超した暴力と性によって近づく事ができるという世界。この村上春樹の小説も、映像として、そんな世界を想起させれものがありました。


ただ、第三部になると、そういう世界から離れて、イメージする映像も変わってきました。ここに出てくる17歳の笠原メイという女の子は、いなくなった妻と同一人物というか妻の若い頃として捉えて間違いないと思います。純粋でまだ悪に触れてない少女。これはフェリーニの「甘い生活」に出てくる少女を思い出させました。大人が夜通し乱痴気騒ぎした朝、酔った体で海辺を散歩するのですが、そこには怪物の様な醜い巨大生物が打ち上げられていて、何とも言えない不快感を味わう事になる。それはおそらく人間の醜さそのものなのでしょう。そこで、乱痴気騒ぎをしたいた張本人のひとりであるマスチェロ・マストロヤンニ(役名は忘れました。グイードじゃなっかたよな)が、前に食堂で見かけた少女を少し離れたところに発見して心が洗われるよな気持ちになります。少女は向こうで何かを言っている。マストロヤンニは近づいて何て言っているのかを聞こうとするけど、それ以上は海が邪魔していけない。よく耳をすまして聞こうとするけど、けっして少女の言葉は届かない。何を言ってるのか教えてほしいと懇願するけど、やっぱりだめ。なんてことないけど印象的なシーンです。醜い大人はもう少女の言葉をどうしても聞く事ができないのです。ねじまき鳥クロニクルの笠原メイも同じく純粋な少女だけど、この小説では手を握る事はできる。そして、それは会うことが出来ない妻の手と同じ感触であることを知るわけです。

 

敵は欲望の行き着く先にある根源的な悪なんでしょうか。たぶん力を持つと誰でもがその欲望には勝てない悪。普通の人間はそんな悪にかなうはずはなんだけど。それでも、どうにかしようと努力する。それが人間だよということなのか?そうしないと「ねじまき鳥はネジを巻くのをやめちゃうよ」ということかもしれません?とりあえず、今はそう解釈しておきます。