カトウのブログ

観た映画や読んだ本、その他について

わたしという牢獄

映画『ドラゴンタトゥーの女』(2011年米・デヴィッド・フィンチャー)は、なかなかグッとくるものありましたね。40年前の少女失踪事件の真相を追求していくというストーリーで、話もとても面白いんですけど、真相を追う主人公のリスペット(ドラコンタトゥーの女・天才ハッカー)の心の傷と当たり前に暮らしている(ように見える)人間の心の闇みたいのが、残酷且つかっこよく描かれていました。まあ、かっこよくというのも何なんですけど、内容がけっこう重く暗いものがあるので、それをスピード感とか格好良さでうまい具合に楽しく見せてくれていました。

 

前回書いた『13日で名文が書けるようになる方法』(高橋源一郎著・朝日新聞出版)を読んでいたら、以下のようなことが書かれていました。「『わたし』という牢獄から脱出するためにことばを必要としている」。確かに言葉って力があるよな、と今更ながらに思ったわけです。世の中には“わたしという牢獄”から脱出したいと思っている人がけっこういそうだというのは想像ができます。だけど、そんなことまったく関係ない人が世の中にはいるんじゃないかとも漠然と思うわけです。しかし、これを読むと皆がそれぞれ“わたしという牢獄”から脱出するための言葉を日々出力してるのかもしれないんだなとシミジミと思ってしまったのです。そういえば、この間友達何人かで飲んだとき一番幸せそうな友人が孤独だと言ってたし。

 

映画「ドラゴンタゥーの女」の主人公のリスペットもかなり深い闇を抱えていて、そこから脱出する言葉を持っていない人でした。ただ、その孤独と共に生きているリスペットも共に事件を追っている男性は信用できると感じたのか、「友だちができた」と親代わりのおじいさんに告げます。これなんかまさに牢獄から脱出するための言葉だったのかもしれません。ただ、本当は「恋人が出来た」とか「好きな人ができた」と言いたかったんじゃないか?たぶん、普通の女性だったらそう言っただろうと思うとちょっと切ない。それだけ言葉を口に出すのって重くって難しいってことなんだな。